五木ひろし
わすれ宿/のぞみ(希望)/男の友情
発売日:8月23日
「わすれ宿」 作詞:中山大三郎 作曲:船村徹 編曲:前田俊明
「男の友情」 作詞:高野公男 作曲:船村徹 編曲:蔦将包
「のぞみ」 作詞作曲 船村徹
DVD付き わすれ宿 定価1,500円
日本でヒット曲を最も多く歌った歌手は、五木ひろしである。
TOP100にチャートインした作品数で歴代単独1位の記録を持つ。他にも燦(さん)然と輝く記録がいくつもある。
※NHK紅白歌合戦通算出場回数46回(歴代単独3位)/通算出場曲数40曲(歴代単独1位)
※日本レコード大賞・大賞2回(歴代3位)
※「長良川艶歌」が『ザ・ベストテン』12年間の第1位
※シングル発売連続47年(147曲)
そんな数々の記録を持つ五木ひろしのトークを聞いていると、まさに「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉を思い浮かべる。彼の歌手人生は、歌謡曲全盛の70年代から、音楽界が一変した現代までを映しているからである。
9月16日放送の『サワコの朝』(MBS/TBS系全国ネット、土曜・午前7時半)は日本の歌謡シーンを凝縮した番組となった。
■ヒットするまで
1948年に京都で生まれた五木ひろし。
父が鉱山技師だったために、鉱脈を追って家族で各地を転々としていた。幼稚園から小学校2年生までが三重県鳥羽市。その後が福井県美浜町。その頃からラジオで新曲が出ると、1番の歌詞を走り書きし、2~3番を聞きながら1番を歌ったという。これで歌詞とメロディーをマスターしていった。
第一線の歌手は年間数曲以上の歌を出す。有名な歌手が50人ほどいるので、1年で数百曲に及んだ。これを中学まで続けていたため、後に3000曲が歌えるようになっていた。一芸に秀でた人には必ず地道な努力が前提にあるというが、五木ひろしも正にそのパターンだ。
待ちに待った中学卒業と同時に、長姉を頼り京都へ移り、関西音楽学院に入学。
そして1年後に単身上京して、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。“松山まさる”を芸名にして、「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューした。ところがヒットせず、その後に一条英一・三谷謙と2度芸名を変えるも、一曲もヒットに恵まれなかった。5年間、苦しい下積み生活が続いた。