Quantcast
Channel: 青森ねぶた祭アントニオ猪木五木ひろし温泉神奈川丹沢小田急旅行
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1996

青森食音ねぶたの家ワラッセ帆立小屋りんご工房A-FACTORY青函ワールド八甲田丸三内丸山遺跡棟方志功記念館浅虫温泉水族館酸ケ湯奥入瀬十和田湖八戸蕪島種差海岸

$
0
0


9月21日 テレビ東京 21:54~22:48 流行歌歌謡曲演歌歌手・五木ひろし

次回は、演歌歌手・五木ひろし(66)。
今年7月、芸能生活50周年を記念して行われた、明治座での『歌舞奏スペシャル』。
1ヶ月間・全40公演をこなすという超過酷なロングランを、66歳とは思えない強靭な体力と精神でこなした。また、今月7日に行われた『西本智実&五木ひろしスペシャルコンサート』では、指揮者・西本智実とコラボレートし、歌手人生初となるオペラに挑んだ。
常に演歌界の第一線を走り続けるということは何を意味するのか?
絶え間なくリハーサルやコンサートが続く中、故郷である美浜町を訪れ、その胸中を語った。知られざる“五木ひろし”誕生秘話、秘蔵映像を公開。
そして、船越さんもタジタジ!?の五木ファミリーが登場!
今年で歌手活動50周年を迎えた男の日常に密着!取材の果てに見えてきたものとは?
挑戦を止めない男、五木ひろしの正体に迫ります。



 9月6日、作詞家で直木賞作家の山口洋子さん(享年77)が、呼吸器不全のため亡くなった。昨年1月に誤嚥性肺炎を患い、この半年は入退院を繰り返す生活を送っていたという。
17才で芸能界入りした山口さんは19才でホステスに転身。東京・銀座に高級クラブ『姫』をオープンし、当時、“銀座最年少ママ”として一世を風靡した女性だった。「6坪ほどの小さい店内に、石原裕次郎、勝新太郎、長嶋茂雄、吉行淳之介など各界の超一流どころが集まる華やかな店でした。友人の歌手・神楽坂浮子さんから依頼されて銀座ホステスの哀愁を描いた歌を書いたのをきっかけに、作詞家としても活動するようになったんです」(山口さんの知人)
その後、中条きよしの『うそ』、石原裕次郎の『ブランデーグラス』と、作詞を手がけた曲は次々と大ヒット。中でも、彼女が見いだしたいちばんの“出世頭”が、五木ひろし(66才)だった。
「1970年、まだ無名の五木さんと出会った山口さんは、彼の才能を見抜き、全力でバックアップしたんです。彼女の作詞した『よこはま・たそがれ』がオリコン1位になったとき、五木さんは仕事場から山口さんに電話して、“先生のおかげです…”と泣き続けたそうです」(前出・山口さんの知人)
以後、『夜空』『ふるさと』と、五木・山口コンビの躍進が続くが、いつしか2人の間に溝もできていった。「五木さんはスターになった途端、どんどん生活が派手になったんです。高級外車を乗り回して、いろんな店で散財するようになって…。山口さんは、銀座で数多くの男性を見てきたかたです。金にものをいわせる男からは、人が離れていく、ということを誰よりも知っていました。
だから、ある夜、五木さんを叱りつけたんです。“本当のスターは、自分がキャデラックに乗ることじゃない。周りのスタッフを何台キャデラックに乗せられたか、ということでしょう!”って」(別の山口さんの知人)山口さんの訃報に触れた五木は、メディアの取材に対し、「私の命のある限り、山口さんと共に歩んでいきます」とコメントしている。




山口洋子さんの死去を受け、山口さんが作詞を手がけた「夜空」「よこはま・たそがれ」などを歌ってきた五木ひろしさんらがコメントを寄せた。
 五木ひろしです。
山口洋子さんの訃報(ふほう)を聞き、驚いております。
信じられない気持ちでいっぱいです。
思えば45年近く前に、私がなかなか売れない時代、10週勝ち抜きの全日本歌謡選手権というのに出場した時に審査員で山口洋子さんがいらっしゃって、そこが最初の出会いでした。
そして、五木ひろしという名前をつけていただき、平尾昌晃さんとのコンビによって「よこはま・たそがれ」という歌と出会い、その歌を作っていただき、五木ひろしがスタートしました。
今日があるのは、本当に作詞家であり、そしてまたプロデューサーでした山口洋子さんとの出会いが全てです。あの出会いがなければ五木ひろしは存在しませんでした。
色んなことを私にテーマを与えてくださいました。
色んなことにチャレンジする精神と、そしていい歌を継承していくこと、さらには、幅広くいろんなことを歌えるそんな歌手であってほしい、それが私に与えた大きな課題でした。
「よこはま・たそがれ」から「ふるさと」という歌があり、さらには「夜空」。そしてその歌でレコード大賞を受賞した時のあの感激、一生忘れません。
その後、ご自分で詞を書くことだけではなくて、プロデューサーとして古賀メロディーを私に歌うチャンスを作ってくださったり、幅広く色んなことにチャレンジをさしてくださいました。
と同時に私の姉と同い年ですから、仕事を離れた一面では家族の様であり姉のようであり、そんな家族ぐるみでまさに家族のようにお付き合いをさせていただきました。
この数年しばらくお会いすることもなかったんですけれど、毎年5月が誕生日なもんですから、誕生日にはお花を届けておりました。今年も。そうすると必ずその贈ったお花の写真と一筆添えて「いつも気にしてくれてありがとう」という、一筆添えて礼状が届いておりました。それが私にとりましては、お会いしてなかったけれど、元気の便りでした。
まさかこのような訃報を聞くとはほんとに夢にも思っておりませんでした。
もう、今はまだショックでいっぱいですけれど、これを現実として受け止めるならば、これからもそして今までも、私の代表作とは山口洋子さんとは常に一緒に40数年歩んできた思いでいっぱいです。
これからも、私が命ある限りその思いは続いていきます。




驚くべき歌詞だった「よこはま・たそがれ」 女心ソングで一時代
6日に77歳で死去した山口洋子さんを音楽評論家の小西良太郎氏が追悼した。
 「作詞家は阿久悠しかいないのですか、歌手は沢田研二しかいないのですか?」
山口洋子からそんなはがきが届いたのは、1976年の初めのころ。スポニチ紙面が阿久をコラム執筆の常連にし、石原信一を起用、沢田の連載を始めたことへ、やや感情的な彼女の抗議だった。
そのくらい彼女は、五木ひろしの全てに熱中していた。彼女が伝説の10人抜きテレビ番組「全日本歌謡選手権」で五木を見いだしたのはそれより5年前の1970年。以後彼女は五木のゼネラルプロデューサーになる。再デビュー曲「よこはま・たそがれ」を作詞、平尾昌晃に作曲を依頼、作家五木寛之と話して芸名を決め、親交のあったキックボクシングの野口修社長のプロダクションに所属させる。それやこれやが大当たり、五木は彼女と平尾の「夜空」で73年のレコード大賞を受賞している。競り合った阿久作品の沢田は、目の上のたんこぶだったのだろう。

 ♪よこはま、たそがれ、ホテルの小部屋、くちづけ、残り香、煙草の煙…
「よこはま・たそがれ」は、驚くべき歌詞だった。流行歌のエッセンスみたいな単語がぶつ切り。言葉の一つ一つが相乗効果をあげながら、物語のイメージを浮かび上がらせる仕掛け。言葉のジグソーパズルみたいな詞の向こう側に見えるのは、濃いめの情事、不倫の匂いで、平尾のメロディーがそれを、よどみなく甘美に具体的にし、下積み6年の五木が、地味派手のおとなの歌にした。
山口は当時、銀座の有名クラブ「姫」のママ。映画女優出身の人脈も生きて、芸能界の有力者が常連客にいた。その中の一人の、
「女給風情が詩人気取りか!」
の一言も、彼女の負けん気に火をつけたろう。五木のヒットを連作、中条きよしの「うそ」の
♪折れた煙草の吸いがらで、あなたの嘘(うそ)がわかるのよ…
に代表される新しい女心ソングで一時代をつくる。
大阪万博、よど号ハイジャック事件、作家三島由紀夫自決、沖縄復帰、石油ショック、ロッキード事件など繁栄と騒然が裏表の70年代に、歓楽街の“夜の哀歓”を描いて、その世界は独自だった。
やがて五木が独立、山口は長い闘病生活に入る。その美貌が人前に出ることは絶えたが、身近で見守ったのは“同志”野口修氏だったろう。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1996

Trending Articles